GoTheDistance

ござ先輩と言われています。(株) クオリティスタートという会社をやっています。

考えることが多いと、人生は楽しい。

うまく伝えられないけれど。

いろいろなコトを、そして自分のことを。空はなぜ青いか、なぜあのコが好きか、なんでもいい。人生は楽しい。考えることがたくさんある。

この言葉がとても好きです。

考えることが自分の中にたくさんあると人生に奥行きが出てくるように思う。ブログを書き続けていられるのも「色々なこと、自分のこと」を考えていられるからで。最近は少しBurnOutしてしまった感覚があって、以前なら一気に強火で飯を炒めるが如くエントリを書くことが出来たが、今は「伝えたいという静かな炎」をつなぎとめる何かに欠けていて、火をつけたいけれども何を燃料としていいのか右往左往している。4年間やってきて、初めてのことです。

考えるということは、実はタフなことだという事をもっと語るべきだと思う。考える対象は往々にして「現実と理想のギャップ」であることが多くて、それを奥深く見ていくと自分のコアな部分まで辿り着いてしまうのだけれど、そこはものすごく見えにくいし、自分の心の距離に近くなればなるほどドアを開けるのにパワーが必要。結構な人がそこまで辿り着くまえに考えることをやめてしまうのではないか、と思う。

考えることをやめてしまったら、正常な判断を下すことなんて絶対出来ない。事実から目を背けてしまったら考えていることにならない。結局最後に残るのは「そんなのはダメだ」っていう頭ごなしの否定であったり、自己防衛にドライブされた否定でしかないと思う。そんなのはイヤだ。老害を忌み嫌っているはずの自分がいつしか老害って揶揄されてしまう。歴史は繰り返す。

この業界は変化が激しい。常に新しい概念が色んな所で生まれている。どこかで新しいコトをいつまでも追っかけるのを見苦しい思う時が多分やってくる。でも、もっと見苦しいのは新しいコトをいっさい認めない思考停止したおじさんになってしまうことだろって思う。新しいことで若い人に太刀打ちできないのは世の常だし、原始的なチェンジ・エージェントには誰も逆らうことは出来ない。自分が新しいコトに首を突っ込むことは必須ではないけれど、その価値を認めることは必須だと思う。新しいことの価値が認められなくなったら、もうそこから老害って言われてもしょうがないんじゃないだろうか。そこを意識した上で、老害うぜーって批判すべきだと思う。

今現在、皆さんは新しきもの、でもそう遠くない将来、皆さんも次第に古きものになって、そして無くなっていく。とても劇的な言い方になるけど、でもそれが紛れもない真実です。君たちの時間は限られている、だから自分以外の人生を生きて時間を無駄にしたらだめだ。定説という罠にかからないように、定説は他の人たちの考えが生んだ結果論にすぎません。

自分の内なる声が、他の雑多な意見に惑わされないように。最も重要なのは、自分の心・直感に正直でいる勇気をもつこと。自分の内なる声・心・直感というのは、不思議なもので自分が本当になりたいものは何か既に知っている。

だからその外のことは、二の次でいいんだ。

考えることがあれば、自分に背骨が出来る。知的に立ち上がることが出来る。そうなれば定説(ドグマ)を自分なりの軸で俯瞰することができるので、それが罠だってコトも「感じる」ことが出来る。そこで実りある出会いや出来事がきっと向こうからやってくる。でも考えることがなかったら、それが罠かどうかもきっとわからない。感じられないことは、考えられない。酔生夢死こそ忌み嫌うべきことだと思う。

自分の心の針の揺れをちゃんと感じて生きていけるように、考えることを多く持とう。

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