やっぱりそう思うんです。
AはBである。BはCである。故に、AはCである。
ここで最も重要なのが「AはCである」だと思う。Bを踏み台にして一段階掘り下げた結論を引き出していることに大きな価値がある。
多くの場合「AはBである」という論理は誰でもたどり着ける。Aという事象の直接原因となりそうなものを考えればいいだけだし、ちょっと考えればそれなりの答えは見つかるだろう。問題は「AはBである」という論理でストップしてしまい、もっと深くまでブレイクダウンしないことにある。このプロセスをトヨタは「なぜなぜ5回」とか言うわけで。
気をつけないといけないのが、「BはCである」の部分。論理と論理をつなぐ箇所がMECEになっていないと、因果律の寄せ集めになってしまう。因果律は常に「AはBである」しか説いてくれない。AはBなのでCなのである、とは決して導いてくれない。そこにワナがあるのではないだろうか。
私の造語だが、「AはBである」というのは直リン思考と呼んでいます。ペアを組めるロジックを見つけるだけで終わってしまう。問題の多くは、A→B→C→D→Eぐらいまで間接的な繋がりを持って「煮詰める」ことによって「神が細部に宿るのが見えてきたレベル」になって、解決されるんじゃないかと思います。