魅力的な文章はその人なりの色を持っているよね、という所から思考を広げてみました。そもそもその「色」ってどうやって作られるのか、ということです。
僕はギターを数年間やっていて一時期バンドもやっていたのですが、オリジナリティは全く発揮できませんでした。要するに、曲を作るということができなかった。音楽的引き出しが少なすぎて、自分が作ったアウトプットに自信が持てませんでした。そこには、全く自分の色はありませんでした。
楽器を弾いて「作品を追いかける」ことは誰にもできるのですが、「新たな作品を作る」ことは、技能以外の何かが強く求められます。
翻って他のことに目を向けてみます。文章もプログラムもその点については同質なのではないかと考えています。文章を書くことは誰にでもできる、しかしそれが1つの「作品」として世界観を内包しているか・感じられるかは全く別の話です。プログラムも勉強すれば書けるようにはなります。しかし、そのプログラムで表現したい世界・それを美しく実現する制約を同時に成り立たせ「生き残る」ソフトウェアを作ることは、技能を超えた「センス」というのが求められます。
その「センス」という言葉の中に神が宿ると思うし、同時にオリジナリティ、その人なりの色が反映されていると思います。
ではそのセンスなるものは、何をもってして形成されるのか。
それはきっと「出会い」にあると思っています。
人に会うことを意味しているわけじゃなくて、音楽、映画、書物、食べ物、洋服、スポーツ・・・。そういった外界の刺激全てと言っていいです。この引き出しを広げて色んな経験を積むということが、その人なりの色を形成するのだと思います。また、僕は本当に独創性のある色は単色ではなく多面的なものだと思っています。
ぼくのオリジナリティ。それはつきつめると、ぼくがいつどこでなにをやって、なにをやらなくて、何を考えて何を考えなくて、という「履歴」だということに思い至ったわけでした。べつにどうということはない、ちんぷであたりまえのことなんですが。どこにどれくらい住んだことがあったか。そこでどんなことをしたか。どんな人と出会ったか。なにを食べたか。なにを聞いたか。なにをたのしんだか。なににおどろいたか。なにを悩んだか。なにを遊んだか。読書の履歴。失恋の履歴。仕事の履歴。学習の履歴。病気やけがの履歴。思考の履歴。情報の履歴。それから家族の履歴。
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不思議なもので、「自分が考えたこと×自分がやってきたこと」だけは誰とも重なることが無いんですね。
ですが、この公式が「×」を採用しているのは、考えたことがゼロなら独創性なんて生まれないよっていう示唆でもあります。
何かの本で村上春樹が「小説を書きたいんですけど何をすべきですか」という問いに「生きることです」と答えていたような記憶があります。彼が言わんとしていることの中には、生きてきた「履歴」はあくまで一時的で過渡的だけど、今だからこそできる表現は、やはり「今」をおいてほかに表現できないので、今を重ねていくことで独創性が浮かび上がってくるよ、ということが含まれていると思います。