村上龍らしい刺激的な一冊だった。
村上龍という作家は、エッセイにおいて特にこの傾向が顕著だが「身も蓋もないけど正確な事実」を読者に突きつけることを好む作家だ。「いま、そこに起こっている事実」を最重要視する傾向が強い。「あなたも思うことはあるでしょうけど、結局ココを解決できなければあなたの行いは水泡に帰すことになりませんか?」というメッセージが、全体的にこの本から感じられる。こういうのがイヤな人はいると思うが、僕は好き。「腐っても鯛」よりは「腐った鯛はゴミでしかない」という考え方を、僕は好む。
いくつか心に残ったフレーズをピックアップして、僕なりの解釈を書いてみたい。
最高傑作と「作品群」
自らの最高傑作を作るという強い意志をもって作品に向かう、みたいな行為がまことしやかに語られていたりするが、そんなのは大嘘だ。表現者は、新しいモチーフを獲得して、それまでに培った情報と知識と技術を総動員し、「結果的に」自らの限界に挑む。ただそれだけのことで、表現者本人には「最高傑作」などという概念はない。
「結果的に」という副詞が全てだなと思う。振り返ってみて「過去最高だった」という作品を自負することが出来、且つ対外的な評価を得られてもそういうのは全部「結果として」起こることであって、表現者は新しい何かを求めてひたすら手を動かすのがあるべき姿である、ということを言わんとしていると僕は理解した。表現者と模倣者のあいだには、この違いが大きくある。
夢と目標
目標はあったほうがいいという程度のものではなく、本当は水や空気と同じで、それがなければ生きていけない。
目標は達成されるべきもので、語られるものではない。達成のための努力を続けている人は、他人に自分の目標について語るような時間的余裕はない。未だに達成されていない目標は、他人に語ることで意志が「拡散」する。目標は自らの中に封印されいなければならない。だから、目標を持つことは基本的に憂鬱なことなのである。
目標という言葉をどう捉えるかですが、この文脈では「ゴール」と考えると村上龍の意図を正確に汲み取れると思う。要するに、どんな行動にも「たどり着くべき場所」があってそこがなければ具体的な行動や優先順位もつけられるはずがないのだから、目標がなければ本来人間は「生きて」いけないでしょう、ということ。もちろん常にそういうものがあるとは限らないが、「じっとしている」ことも目標になり得ることは、加筆しておきたい。
僕が一番好きなのは「他人に語ることで意志が拡散する」という所。最近の成果主義型人事制度においては、企業の「目標」から個々人の「目標」を管理していく、もしくは自発的な目標を掲げることで職場をより魅力的なものにする、という発想が強い。僕はこんなの大嘘だと思っている。本来与えられるべきは目標ではなくてミッションであり、それ以外のことは全て二の次でいいはずだ。これが極度に右に傾くとブラック企業の謗りを受けることになるけれど・・・。そのミッションに準じる価値があるか、またそのミッション自体が価値を有しているかは議論が必要になりますが、本質的に組織が共有すべきことはそういうことだと思う。
品格と美学について
繰り返すが、仕事はなんとしてでもやり遂げ成功させなければならないものだ。仕事に美学や品格を持ち込む人は、よほどの特権を持っているか、よほどのバカか、どちらかだ。問題は品格や美学などではなく、Money以外の価値を社会及び個人が具体的に発見できるかどうかだと思うのだが、そんな声はどこからも聞こえてこない。
マッチョ的な匂いを感じられるかもしれませんが、仕事はやり遂げて成功させなければならないものというのは本質を突いた指摘だと認めざるを得ない。レジ打ちだって「仕事」であり、正確な売上を提示し、顧客から金銭をもらうことは「やり遂げて成功させなければならない」ものです。責任の重さ・複雑性・技能のレベル等の幅はあるでしょうが、対価を要求する仕事である以上、単純に「出来ませんでした」というのは通用しないのは明らかだ。
こう書くと品格や美学自体を否定していると受け取られるのだが、村上龍自身もそんなことは一言も言っていない。それらが有用に働く場面とそうでない場面があることを、彼は正確に説明しようとしているだけだ。何かを否定するとそれ自体が否定される感覚を覚える場合は、自分以外の尺度で物事を考えるいう視点を失っていることが多い。
ときに投資は希望を生むが・・・。
投資というのは、ある何かの今の価値と将来の価値について考えを巡らし、自らの意思で資源を投入することを言う。投資を成功させるためには、対象となる株式や商品や不動産の今の価値と将来の価値を、ある程度比較検討・検証できなければならない。
至言だと思うし、これは「自分」に置き換えても有用だと思う。キャリアというものは「ある何かの今の価値と将来の価値について考えを巡らし、複数の軸で考え比較検討・検証し、自らの意思で資源を投入した結果」に他ならないのではないだろうか。重要なのは「今の価値」と「将来の価値」を比較できなければ意味がない、という指摘だろう。今やっていることが意味があるかどうかと、今やっているものが生み出す将来価値は分けて考えなくてはならないという、村上龍らしい問題提起が垣間見える。
ビジネスにおける文章
仕事における文章は、「正確で簡潔」でなければならない。そして、それは非常に難しい。実は、小説の文章も同じように「正確さと簡潔性」が求められる。
仕事における文章は、物語性がない文、さらに正確で簡潔であることが要求される。当然のことだが、コツや秘訣はない。
うまい文章、華麗な文章、品のある文章、そんなものはない。正確で簡潔な文章という理想があるだけである。
正確であるということはどういうことなのかは、議論するだけ無駄な気がする。描写に絶対的な正解はないし、同じ事実を見ても事実の描写が正確であることと、文章の意図が正確であることは全く違う。
ずっと文章を書き続けていく中で、僕は「○○的」や「△△性」という言葉を多く使うようになってきている。元々こういう言葉は日本語的ではなく、英語の文章でよく見受けられる言葉のように感じる。英語は主語と述語を明確にすることを強く求めるし、日本語よりも「one word,one meaning」を求める傾向があると思う。ただ、それが外来語としてカタカナ化されると、途端に行き場所をなくして空中に浮きがちになるのではないか、と思う。
僕が「○○的」や「△△性」という言葉を使うようになったのは、物事は複層的で多面的であるので、「このような状況下においてはこういう側面が強い」「こういう視点から見るとこういう特性を見出すことが出来る」といったものを正確に記述するために、どうしてもそのような修飾を必要とするケースが多いからだ。そして、僕の場合おいてだが、その物事や事象がどのような変化をみせたとしても、誰にとってもおおよそ変わることない性質を説明しようとする時に「基本的に」という言葉を使うようにしている。多分、基本というのはそういうものだと思う。
無趣味のすすめ
現在まわりに溢れている「趣味」は、必ずその人が属す共同体の内部にあり、洗練されていて、極めて安全なものだ。考え方や生き方をリアルに考え直し、ときには変えてしまうというようなものではない。だから趣味の世界には自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。
つまり、それらはわたしたちの「仕事」の中にしかない。
「面白い」ことはリスクもコストも多く含んでいるから大多数の人は「極めて安全で無機質なもの」をやっているのではないか、というメッセージに、何を思うのか。それこそが「無趣味のすすめ」なんだろう。
- 作者: 村上龍
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2009/03/26
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