昨日会社の人たちと飲んできました。その中で「こういうのが面白い、こういうのがいいんじゃないかって言う事は提案時に思いつくんだけど、それをなかなか上手に伝える事ができない。プレゼンが下手でさぁ。」という話題が持ち上がりました。その時は「あるものが良いとわかること」と「あるものが良いと伝えること」は全く別物であるという所で会話は終わった。で、飲み会が終わってお疲れさまでしたーということで1人になったので、どうして別になるのかなぁと考えていたらこんなことを思った。
自分が良いと思っていることを伝えられないのは、伝えるための物語が作れないからではないか。
多分、これは正しいんだと思うのです。
これはプレゼンに限った事ではなく、報告書でもブログでもExcelでもPowerpointでもどんな媒体を選ぼうとも変わらないと思います。何かを表現するために一番必要なのは、物語を語ることに尽きるのではないかと。小林よしりんが物語の希求力という言葉を使っていたけど、きっと人間の根源的な生きる理由の中に「物語」というのがあるのかもしれないな。
色んなストーリーを語れるようになるためには、文脈というのものが分からないと1つの筋道が出来ません。そして、文脈というのは出発点が異なれば全く違う文脈になり全く違う結論が生まれます。概念や考え方の世界に、唯一無二の答えなんてあるわけがない。もしあるのであれば、それは全く思考を喚起させることのない「死ぬほどつまらない当たり前のこと」です。常識の羅列で文脈を構成するのは最低の行いです。
唯一の答えはありませんが、間違った解釈は存在するわけです。読解力をつける、考える力をつけるというのは、唯一の答えを求めることではなくて、解釈の整合性を問う力をつけ、さらに複数の解釈が成り立つことを理解したうえで、それぞれの解釈にいたる文脈をいかに多く見つけられるかに関わる力をつけることではないかと思います。
まさにこれです。複数の解釈が成り立つっていうのを体で覚える必要があると思っています。
じゃあ文脈を組み立てるにはどうしたらいいのという話ですが、文脈の根本にあるのは、「語彙」だと思います。
人間って結局、過去に記憶として蓄積されているものとのパターンの類似によって、未知のものを「わかった」と感じているのかなと思うんです。もちろん、パターンの類似であって一致ではないと思います。類似における相違も「わかる」ためには必要な要素です。「わかる」ということは区別できるということでもありますから。過去の記憶との類似と相違に気づくことで「わかった」と感じることができるんではないか、と。
このわかったということは、ある特定の領域における考え方でありパターンであるわけです。それを言葉にするために必要なのが語彙です。重要なのは単語の数ではないのです。組み合わせです。自分が感じたこと理解したパターン・概念を体系立てて考えていくと、それは言語体系につながって行って最後は語彙に落ちていくと思うんです。プレゼンの研修って目線をこうしましょう、資料の構成はこうしましょう、見やすい資料はこうです、姿勢はこんな感じで、話す速度や緩急をどうした・・・っていうのがほとんどだと思うのですが、結局スライドで伝えたいことの語彙が貧弱だとプレゼンが軽くなります。
まずは、語彙を増やすことが大切だと思っています。それが増えていくためには自分で文章を書くってことしかない気がします。
というわけで、ブログを書きましょう!ブログの目的を語彙を増やすことにしたら、とっても×10有効なブログの使い方になると思います。