広く言えば、勉強することの意味はすべてここに帰結すると僕は思っている。
学生の頃の頭の良さ、端的に言えば受験勉強的に◎な頭の良さは、概念を吸収する力でしょう。つまり、何を言いたいのかを理解できる力。何が求められているのかを考える体力をつけるために、学生は勉強しなくてはならないと僕は思う。知的体力重要。知的体力というのが無いと、概念と概念がぶつかったときとか、自分が理解できない未知の領域がやってきたときに、考えることを放棄しちゃう。
こーゆーのは、僕が思うに「インプット」に即した頭の良さだと思う。
でも、インプットだけでは何も生まれないことを問われる時が来る。それが、社会に出るとき。
でも、実際に必要なのは、「なにをどう勉強すればいいか考える力」。その力がないと勉強ができなくなる。勉強ができなくなるから、だめになっていく。
学生のころ勉強ができた人が、社会人になってだめになってしまうのは、「どう勉強すればいいか考える力」がかけているせいじゃないかな。社会人になったら、どう勉強すればいいのか誰も教えてくれないから。
なので、ひがさんのおっしゃる通り「出す」頭の良さというのが求められる。オレはお前のパパじゃないって感じだよね。アウトプットを出すためには、そもそもインプットがなければ生まれないわけで。アウトプットを出すためには、インプットを血肉に変えて自分なりの色を出す必要があって、それが「どう勉強すればいいかを考える力」が求められる領域じゃないかな。
でもさ、結局それってなんのためにあるのか?
やっぱり、物事を正しく判断する軸を持つためにあるのでは?
正しく判断するってことは、あなたが接している物事がどんな価値を持っているのかを正しく認識できることでしょう。それって総合的な器の問題だよね。でも、勉強でしか鍛えられない要素だと思う。
頭の回転の速い人は世の中すげーいっぱいいるけど、やっている行いが愚行だったらそいつはバカだってことになるわけで。勉強が習慣になっているひとって、何らかのToBeを描くことが出来ると思う。Tobeを示せないなら、誰かのTobeの中で生きざるを得ない。
というわけで、この勉強の先にはどんな価値があるのかを念頭に置きながら、勉強に勤しむべきです。